学区案内

 

津島市は、濃尾平野の西部に県下九番目の市として誕生した人口六万七千人の街である。本校のある西の地区は、住宅と商店の静かな町並みが続く。しかし、古くは津島湊(みなと)として東西の交通の要所として栄え、この地方の中心として賑わってきた。街のあちこちにある文化財や史跡がそのことを物語っている。
津島駅から西に伸びる天王通りを十分ほど歩いたところに津島神社がある。かつて牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、庶民が疫病の平癒を願って栄えた神社である。また、全国に三千社ある津島社・天王社の総本社でもある。東側に建つ楼門は、豊臣秀吉の寄進によると伝えられ、国の重要文化財になっている。本殿は家康の四男清洲城主松平忠吉の寄進、南門は豊臣秀頼の寄進である。
この神社と深くかかわりのあるのが、七月に行われる尾張津島天王祭である。日本三大川祭りの一つとして数えられ、五百年の伝統を誇っている。神社の南にある公園は、江戸時代には川として流れていたが、現在は丸池だけが残り、天王川公園として知られている。その天王川を舞台に祭りが行われる。
宵祭りでは、五艘の巻きわら舟の提灯に灯がともる。舟が川面を照らしながら、ゆっくりと進んでいく姿は、古の時代絵巻を思わせ圧巻である。朝祭りでは六艘の車(だん)楽(じり)船(ぶね)を天王川に漕ぎ出し、先頭の市江車から十人の若者が鉾を持って水に飛び込み、川岸まで泳ぎきる。それからさらに神社まで力強く走っていく姿は勇壮である。この車楽船行事は国の無形文化財に指定されている。
神社と公園の間にある堀田家住宅は、江戸時代中期の建築であり、国の重要文化財である。堀田家は神社の神官の流れをくむ旧家で、初代当主は福島正則に仕え、子孫は酒造業・金融業や新田開発を手がけ財を成したという。主家と三つの土蔵からなり、尾張の町屋建築の特徴が色濃く現れている。
繊維の町として活気のあった津島市も、経済構造の変化により、大きな曲がり角に立っている。しかし、街の豊富な歴史的な遺産を見直し、新しい津島市の今後に役立てようと、市民の意気はさかんである。